わたしが生まれて初めて行ったコンサートは 中島みゆき さんです
78年の5月か 6月頃だと思います
千葉県千葉市ですが 県民ホールとか市民会館とか・・思い出せません
今はプラチナチケットですけど 当時は・・
電話で当日券が まだ少しあると聞いて東京から出かけて行きました
みゆきさんが
どんな感じで どんな思いを込めて
歌っていたのかは 鑑賞眼が無くて分かりません
6人くらいのバンドと一緒に みゆきさんは ギターを抱えて歌っていました
後半では数曲 ギターのアルペジオで 単独の弾き語りがありました
特別に練習したとか言う どでかいハープでの弾き語りも一曲ありました
バンドと一緒の時は
よく見ると 1小節の中で4回ダウンストロークをしているだけでした
わたしはギターを始めて一年余りでしたが 数曲見ていて気がつきました
そして中休みを含めて10曲を越えた あたりで急に「えへ わかるぅ?」
と言い出しました 「アタシね コードストローク苦手なんだよね」
誰も指摘していません でも感じたのでしょうか心の声を・・
そして みゆきさんは さらに
「普段は弦を弱く張って・・」 カポをはめて 弾いたり作曲したり するそうです
「 もし普通にチューニングしたとしても どうせ カポが無いと弾けないんだけどね」
当時すでに 4枚のアルバムを出していた みゆきさんが こんな事を言うなんて
びっくりしました そしてギターの話は3回くらいMCで出て来ました
大学に行ってた頃「札幌のスケートリンクで もぎりのアルバイトをして 作ったお金で」
最初のギターを買ったそうです「もぎりってぇ分かるぅ?」と説明もしていました
入場券を受け取って 半券を点線のところで切り取って お客に渡して 入場してもらう・・・
などを説明していました そして そのギターを持って北海道の予選を勝ち抜いて
東京の本選会へ ヤマハ ポップス コンテストの本選会へ行った そのリハーサルで
ヤマハのスタッフの人が ギターを貸してくれた
「アタシの持っていたギターが あまりにも安物だったんで気の毒に思ったんでしょうねぇ」
貸してもらったギターは 優勝した後で 返さなくてすむ事になったそうです
そして その時の優勝曲を歌ってくれました
# 時代 #
・・
良いコンサートであったことは確かです そして
単純な伴奏でも 人を感動させる歌が 歌える
つたない技術でも あれだけの歌を 創れる ことを教えてもらいました
雲の上にいた彼女が 地上に降りて来てくれた日 だったのかも知れません
02年の秋 市原市でフォークソングの写真展のような催しで
みゆきさんの記事を見かけました
世界歌謡祭で優勝が決まった後で優勝者が もう一度その曲を披露する時に
みゆきさんはバックバンドを制して たった一人の弾き語りで# 時代 #を歌った
という記事でした
75年の末頃 みゆきさんが決勝の場で歌った# 時代 #はラジオから
モノラルで雑音入りで何度も流れました
しろうとの耳でも 彼女の声がうわずっているのは 分かりました
でも 歌に込められた思いの 大きさ 勢いが すごいのです
催しを盛り上げるために付いていた オーケストラなみの大編成のバンドを 制した
みゆきさんは どんな気持ちだったのでしょう
3連符が連続するあのアルペジオが 始めから終わりまで続く
それでも すばらしい歌は 歌えるのです
そして
76年の末頃 わたしはギターを買いに行きました 23才でした
理由は パチンコやるよりも ギターの方が良い 唯それだけの理由です
心を育てるためには ギターがプラスになる と思ったのです
そして 初めてコンサートを見に行った78年の
あの日から わたしは ギターをする目的が少しずつ
変わっていったのかも知れません
そして
27才の頃から 歌を作り始めました 幼稚な歌でした
でも少しずつ ましな歌を創るように なって行きました
わたしは
創作能力を育てることが 最優先で
発表はあとでいい と思っていました
こういう人に歌って欲しいと思える日が来るまで あせる気はありませんでした
と その後のわたしを語るよりも
♪れぇいぃこっ いい女になったね・・♪で 始まる歌がありまして
先ほどのコンサートの話しの続きですけど 中島みゆきさん作詞作曲の
#怜子#という歌は レコードでは歌と伴奏が同時に始まります
カウントを入れるか アレンジを変えるか 迷ったのだけど
「結局 こう ・・」
ギターのネックを 10センチほど上に動かして それを合図にすることにしたそうです
くいっ♪れぇいぃこっ ・・♪
#世情#
「このコンサートが決まった後に ある先生から手紙をいただきまして
もしこの歌を歌うのだったら バックコーラスをやらせて欲しい・・という内容で
快くお願いすることになりました 」
と 30人くらいの学生さんたちが舞台で
レコードのアレンジにあるようにコーラスをしました 中学か高校か 思い出せませんが
少し社会批判も含まれている歌だと思うので この先生 大丈夫かなと
心配しながら聴きました どんな おとがめも 怖くないだけの自信があったのでしょう
とは言うものの 何か規則があるらしくて
歌い終わってから数曲後
突然
「 今 先ほどコーラスをしてくれた学生さんたちが 帰るとこ なんですよ
8時までしか居られない・・・・」
子役のタレントの時間制限のように法律があるのか
その学校の規則なのか
わたしは聞きのがして 解りませんが 何か規則があるらしくて 8時数分前に
みなさんが帰って行きました と言うよりも
直接 客席からは見えないのです ただ 客席から右手 かみ手に向かって
みゆきさんが 数回 会釈をしながら 見送っている姿だけが見えるのです
その学生さんたちは「ずっと舞台袖で・・」歌を聴いていたそうで
「今 先生も 先生はこのまま居てもいいのに そうも いかないのでしょうね・・ 」
6時半開演で8時 おい このまま みんな 最後まで居りゃあいいのに と思いながら
みゆきさんを 見ていました
「父は医者で 医者と聞くと金持ちのように思うかも知れませんが 」
家は貧しくて 古い白衣をずっと使っていたそうです
「母がいつも同じ折り目でアイロンをかけるものだから 仕舞いには・・」
白衣が折り目のところで破れて「ペロペロになったのを父が着ていたことも・・」
あったそうです
このMCのあとに 何を歌ったのかは 覚えていません
この時は わたしは知らなかったのですが 事実と 少し違うかも知れませんが
ポプコンの頃お父さんの容体はあまり良くなくて 帰郷 葬式 世界歌謡祭
という話しを 雑誌で読みました
どんな気持ちで歌っていたのか ・・・
みゆきさんの話した内容は わたしの記憶から出ています
だから わたし色になっているのでしょう 思い違いもあるはずです
そして わたしが思いつく順に 曲名を 書いたのであって
この曲順で コンサートが進行した訳では ありません
今は少なくともメモをします 少しでも書いてあると
それを軸にして いろいろと思い出せるので・・
蛇足ながら わたしの見た みゆきさんの#時代#では
一小節の中で ダウンアップダウンを4回するコードストローク等は使いませんでした
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